***   息づく曼荼羅  ***                   [BACK]

クラフト アート インターナショナル No. 28, 1993年掲載

チベット生まれのアーティスト、カルマ・フントゥソク。
彼の「サンカ絵画」(伝統的仏教絵画)は、オーストラリアにやって来てはじめて、
国の様式を映し出すようになった。
~デビット レイク

彼のアトリエの壁、ちょうど目の高さあたりに、つぶされた銅で出来たシンプルな棚がある。
その棚には銅製の水をいれる器が数個、ろうそく、彼の崇めるダライラマの2つの小さな像と、写真が飾られている。
カルマにとっての水とは、混じりけがなくお金がかからない、最もシンプルな捧げ物。
ろうそくは光を与え、彫像は強い意志を思い出させてくれるもの。
そしてそこには、カルマにとっての紛れもない英雄ダライラマの写真がある。

カルマは、自分の年齢がいくつなのか、正確には知らない。
ダライラマが亡命したのと同じ年、両親と共にチベットのラサを後にした。
それが1959年のこと。カルマの母は、当時カルマは、7歳だったと言う。
その頃のチベット人同様、カルマの家族もインドのシッキムに着いた時には無一文だった。
そんな中でも、チベット人の精神は貧しくなりはしなかった。つつましやかではあるが、すぐにカルマは新しい住まいを楽しんだ。
学校教育はチベット人のために設立された難民学校で受けた。(この時代はチベット人達にとって寛大な10年だったのだ)
若かったカルマは、自らの民族の本質に忠実に生き、仕事は熱心に最後まで行い、
同じ職業を続けれらることに深い感謝を示した。
バスを運転することはカルマにとっては機械工になることを意味し、その経験に富んだ器用さは、彼の生涯の持ち味になったのだ。

時が経つにつれ、カルマは絵画への関心を募らせ、ついにはサンカ画家の師匠の下での厳しい徒弟への道を選ぶ。
サンカペインティングの修行は、神性の姿、形を描くことである。
神性の姿、形は瞑想の「道具」であり、1つ1つが古代から伝わる伝統に従って描かれている。
チベット人にとってのサンカとは、神秘的な部分など何もなく、描かれた足は地面に下ろす本物の足と変わらないのである。
肉体は秩序をもって、精神に導かれる。つまり全ては、公益の為の修練と改善の問題なのだ。
偉大な約束を果たす、選ばれし学生としてカルマは、1日24時間師匠と共に生活した。
特に材料の準備は時間のかかる仕事だった。色彩に使う絵の具は、広い地域で集められた様々な石から採取される。
それから、モルタルやすりこぎなどシンプルで伝統的な道具を用いる。材料は臼ですりつぶされる。
全工程は時に数日かかることもあった
布はきちんと縁縫いされ、木製の枠組のなかで引き伸ばされ、うさぎの皮の糊とチョークの調合したもので美しく整え、
太鼓として音が鳴るようになるまで、引っ張って広げなければならなかった。

東洋の伝統では、師匠は経営者であり、生徒は学びが早かった。
カルマはまず第一に生計を立てなければならなかったので、雪を頂く山々の土地でも儲かる職業である
プロの画家の世界へと足を踏み入れることになる。

1978年、まだネパールにいた頃一人のアメリカ人に出会った。彼女は、彼女の第二の故郷オーストラリアから来ていた。
その名は、キャロル。モンタナ州カリスペル生まれ。
キャロルは、カルマをリンポチェという8世紀に仏教の教えをチベットにもたらした偉大なインド人の指導者
(チベット仏教の宗教的教師の権威者)に紹介した。
伝説によると指導者リンポチェの領土は銅色の山々の島の中心にあると言う。
カルマの初期の作品のひとつに「リンポチェの指導者」と題された作品があるのだが、それはグリーティングカードとして再現されており、
カルマのアートシリーズの中でも最も人気のある1つである。
オーストラリアに来たことで、カルマの作品に、解き放たれた限りないインスピレーションが与えられたのだ。
きちんとした技術をもち、手順を踏んだ実験はやがて、チベット伝統芸術の広がりからオーストラリアのジャンルとからみ合うようになっていった。

インドで習得した伝統的技術は、カルマが重要な技術だとしてマスターした道具、エアブラシの発見によって、ますますその技術を伸ばした。
見る者が中に浮かび上がるような効果を与える3次元の世界を体験させる夜の空シリーズを創作した時、彼の技術は飛躍的に洗練された。

作家の家に飾られている作品は、実験的な要素が強い作品である。
地球の裏側がまだマグナカルタ大憲章時代に、チベットで生きたミラレパという偉大なヨガ修行者の人生を描いたものだが、
この構想はのちにカルマが、子供向けの本のために描いた9つのイラストレーションシリーズで使ったものである。
(残念ながら、この絵本は出版されなかったのだが・・・)
この実験的な試みはシンボリズムを浮き彫りにし、まちがいなく寓話作家の心を何時間もうばうものだろう。
しかし当のカルマにとっては、楽しみのための試み。どの作品でも、視覚の形式から創造主へと飛躍する、そしてしばしば見るものに
彼のユーモアを感じさせる、新しい要素を紹介する実験を行うのだ。
まったくのポジティブな娯楽なのである。

1982年から84年のオーストラリアの初期の委員会はクイーンズランド州エウドロでに設立された仏教のチェンレチヒ機関に
アーティストが居住するという立場をとっていた。
そこでカルマは何百もの色達で瞑想ホール(ゴンパ)を装飾したり、興味のある学生達に伝統的サンカ絵画の技法を教えたりした。
1985年には、カルマはニューサウスウェールズ州の北キョーグルの近くにあるコリンズクリークとクリアスプリングの上の山々の高地
ヴァジュラデュハラ ゴンパへ移り住んだ。ゴンパの中央の建造物は立派な広さを持つ伝統的寺院になっており、
その内部の壁は、244cm×122cmに及ぶカルマによって描かれた9つの絵画シリーズで見事に装飾されていた。
その作品は1989年に完成され、オーストラリアのいくつかのコンセプトを紹介した。
その時期カルマはニューサウスウェールズ州のノーザンリバー地域で重要な地元での展示会を始めた。
その後、1989年メルボルンで行われた「チベット・ヒマラヤ・フェスティバル」や、1990年シドニー大学での「イヤー・オブ・チベット」
1991年と1992年に同じくシドニー大学で行われた「チベット・フェアー」など様々なチベットフェスティバルや違う分野での祭典、行事で展示会を行った。

1992年の終わり頃、カルマの作品はニューサウスウェールズ州のアートギャラリー、「ビエネール・オブ・シドニー」、またシドニー、ライヒャルトにある
モリ・ギャラリーの一角でより多くの人々に公開されるようになった。
同じ年、オーストラリアを訪問中のダライラマに敬意を表して行われた展示会のため、ビクトリア州の国立美術館である「アクセス・ギャラリー」で
いくつかの絵画を展示するように求められた。
カルマには知らされていなかったのだが、カルマの5枚の作品が展示会の中央を飾り、「生きている曼荼羅」と名づけられた。
その作品を見たダライ・ラマは、喜びを表した。
展示会の管理者はスペシャルゲストの大きな笑い声を誘ったのである。
この出来事は、カルマにとって非常に大きな出来事となった。

絵画は、キョーグルの北グリーンピージョンの未開の地を開拓した、緑に覆われている土地の真ん中にぽつんぽつんとある
魅力的なカルマの家で所有していた。
電力は太陽発電で、1990年の装具は全てすぐ使えるようになっている。
父と息子は電子機器をいじるのが大好きなのだ。
エアブラシを動かす電力は、必要な時だけ、燃料発電機を通して届く。
圧縮機に貯蔵されている空気は、必要に足るだけ分である。
床下には、シンプルなアトリエには少し不釣り合いではあるが機械装置が置いてある。
独立している部屋の玄関は、百科事典の世界から飛び出てきたような深い低木の林ととシダの生い茂る森に向けて開け放たれている。
この土地の豊かさは、カルマが到達出来る広大な精神世界、現実を引き伸ばしたり、幻想の世界へといざなう精神世界ををさらに補い完全にしているのだ。

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